LOGIN友作が出たあと、部屋の中はしんと静まり返った。彼女も去った。そしておそらく、もう二度と戻らない。弘次の耳に残ったのは、自分の心臓の鼓動だけだった。帰り道は驚くほど順調だった。出発した時間がちょうど渋滞を避けられたのだ。車はスムーズに高速道路へと入っていく。弥生はシートに身を預け、風の音に耳を傾けながら、高速に入る直前瑛介が言った言葉を思い出していた。「本当に、これでいいのか?そうしたら、簡単には引き返せない」弥生は唇を結んだまま、答えなかった。運転手は順調に高速道路を走り抜け、終点へと近づいていった。しばらくして、弥生はようやく気づいた。瑛介がまだこの件を気にしている。「私が彼と会えなかったとしても......あなたが気に病むことじゃないわ」静まり返った車内に、彼女の声が響いた。瑛介は振り向いた。弥生はまっすぐ彼を見つめて言葉を続けた。「あなたがそれを気にしている限り、彼の思うつぼになるんじゃないの?」その一言に、瑛介の目がわずかに見開かれた。まるで霧が晴れるように、すべてが腑に落ちた。そうだ。自分が彼の存在を意識しているかぎり、弘次の勝ちなのだ。「......なるほどな」暫く沈黙したあと、彼はふっと笑った。「君の言うとおりだ。俺が無駄に考えすぎてた」そう言って、弥生の肩を抱き寄せた。「もうこの話は終わりにしよう。これからは......ちゃんと、日常を生きよう」弥生はその胸に身を預け、静かにまばたきをした。けれど彼女の心の奥では、まだ別の何かが、ひっそりと疼いていた。一方その頃、由奈はこの数日、新人の沙依を指導していた。沙依はこの仕事をどうしても続けたいらしく、覚えも早く、誰よりも熱心だった。由奈が与える課題を、彼女はどれも真面目に仕上げてくる。資料整理を命じたときには、その内容を丸ごと暗記してきたほどだ。その結果、目の下のクマがまるでパンダみたいに濃くなってしまっていた。それを見た由奈は、思わず苦笑して言った。「勉強好きなのは嬉しいけど、体を壊したら意味がないわ。ちゃんと休まないと、仕事は続かないのよ」沙依は照れくさそうに笑って肩をすくめた。「大丈夫です、慣れてますから。徹夜くらい平気です」「でも、もし倒れたら?私
弥生はようやく恐怖から我に返り、唇を結んで小さく息を吐いた。「......そう」短い言葉のあと、空気がぴたりと止まった。弥生が隣を見ると、瑛介が黙って立っていた。彼女の視線に気づくと、彼は軽く眉を上げただけで何も言わなかった。完全に、彼女の判断に従うつもりらしい。弥生は彼と数秒見つめ合い、やがて小さく声を出した。「......もう、帰ろうか」瑛介は口の端をわずかに上げ、彼女の腰に手を添えて軽くつねるようにした。「君がそう決めたなら、それでいい」「うん」弥生は頷き、今度は友作に視線を向けた。もう迷いはなかった。「......私たちはこれで失礼するわ」そう言って、弥生はちらりと上の階に目をやった。彼女の視線の先、壁の隅に小型のカメラがひっそりと設置されている。そのカメラの奥、モニターを見つめていた弘次は、弥生がふとこちらを見上げた瞬間、息を飲んだ。まるで、彼女の瞳がレンズ越しに自分を見つめているかのようだった。弘次の唇が、ぎゅっと結ばれた。垂れ下がった右手が、音を立てるように拳を握り締めた。会いたい。その衝動が、喉元まで込み上げた。だが、次の瞬間、理性がそれを押しとどめた。もし今会ってしまったら、彼女は区切りをつけ、心から自分を手放すだろう。そしてきっと、穏やかな生活へ戻っていく。もう二度と、自分を思い出すこともなく。そう思うと、弘次の胸の奥にひどく冷たい痛みが広がった。それなら、いっそこのままでいい。彼女の心に、消えない棘として残ればいい。ゆっくりと、握っていた拳がほどけた。弘次はかすかに目を閉じ、無理やり笑みを作った。......これでいい。忘れられないままでいてくれ。弥生の瞳には、何の揺れもなかった。そのまま数秒だけ上を見上げ、やがて静かに目線を下ろした。「......行きましょう」「うん」瑛介は頷き、彼女の手を引いて歩き出した。二人は振り返ることなく、静かに去っていく。足音が遠ざかり、姿が完全に消えた。友作はその場にしばらく立ち尽くし、背後の階段から何の気配もないのを確認してから、ゆっくりと上がっていった。階段の途中で、彼はさりげなく壁際のカメラに目をやった。やはり、全て見ていたか。ドアを開け
友作は、弥生をじっと見つめた。彼女の顔には驚きも怒りもなかった。まるでこの結末を最初から分かっていたかのように。その落ち着きに、友作の胸の奥に嫌な予感が走った。そして、その予感はすぐに現実となった。「彼が会いたくないなら......私も無理にしませんので」弥生はやわらかく微笑み、まっすぐ友作を見つめた。「どうか彼に伝えてね。身体を大事にするようにって」友作は言葉を失った。「それから、友作」弥生はふと思い出したように口を開いた。「......もし、今後何か力になれることがあれば、遠慮なく言ってね」予想もしなかった言葉に、友作は思わず瞬きをした。彼女が弘次の話を続けると思っていたのに、突然自分のことを話題にするとは。「霧島さん......とんでもないです」友作は苦笑しながら言葉を継いだ。「私は黒田さんの部下ですから、もし彼が倒れたら、私の居場所もなくなる。だから守ったのは、あなたのためというより自分のためなんですよ」それでも弥生は静かに微笑んだ。その目には、彼の言葉の裏にある誠実さをちゃんと理解している光が宿っていた。「......そういうことにしておくけど。でも、あなたが危険を冒してまで動いてくれたこと、私は忘れないわ。だからもし何かあったら、必ず私を頼ってね。約束してくれる?」友作はそれ以上何も言えず、最後に頭を下げた。「......わかりました。ありがとうございます、霧島さん」「それじゃあ」そう言って彼女が背を向けたとき、友作は思わず問いかけた。「霧島さん、これからはどこへ?」「ええ、私は帰るわ。今回は長く滞在するつもりじゃなかったし......二人の子どもが待ってるから」「正確に言えば、『私たち』だ」不意に背後から声がした。次の瞬間、瑛介が歩み寄ってきて、弥生の腰をぐっと抱き寄せた。弥生は驚いて目を瞬いたが、すぐにその様子に呆れ半分の笑みを浮かべた。「......うん」まるで子どものように嫉妬を見せる彼に、苦笑を隠せない。一方の友作は、完全に予想外の光景に言葉を失った。嫌な予感が的中した。その直後。階上から、ドンッと鈍い衝撃音が響いた。空気が一瞬で張り詰め、全員の視線が一斉に天井へと向かった。だが廊下を挟んでいて、何
弘次はその言葉を聞いて、冷笑した。「届ける?そもそも、彼女がまだホテルにいると思うのか?本気で返すつもりだったなら、どうして昨日のうちに渡さなかったんだ?」友作はその皮肉を受け流し、淡々と答えた。「霧島さんは近くのホテルに滞在されていますので、行ってみてもいいかなと思いました」弘次は何も答えなかった。部下がスマホを届けに出ていったが、時間が過ぎても連絡は来ない。弘次がもう駄目かと思い始めたころ、ようやく報告が入った。「無事にお渡ししました。ただ、まだ雨がひどくて一時的にホテルで待機しているそうです」弘次は口を閉ざし、無言のまま考え込んでいた。友作が続けた。「話によると、雨が強すぎて霧島さんたちはしばらく動けないようです」その言葉を聞いた弘次の口元が、わずかに歪んだ。「......それがどうした?そんな些細なことまで報告する必要があるのか?」そう言い放つと、彼は無表情のまま部屋へ戻っていった。友作はその背中を見送りながら、ふとため息をついた。たしかに彼の言葉は冷たかった。だが、心なしかその背中は少し軽くなって見えた。雨が降り続く中、友作は弘次の胸の中に渦巻く感情を痛いほど感じ取っていた。翌朝。十時を過ぎても、弥生は現れなかった。弘次の顔には焦燥が浮かんでいたが、彼は一言も愚痴をこぼさなかった。スマホもすでに返した。友作にできるのはただ傍で静かに待つことだ。長い沈黙のあと、弘次が立ち上がり、部屋に戻ろうとしたその瞬間、「黒田さん」友作の声が彼の背にかかった。弘次は眉をひそめ、振り返った。その瞳には明らかな苛立ちが宿っていた。「何だ」「......霧島さんをお待ちなんですか?」「......違う」「誰がそんなことを言った?」それでも友作は怯まず、静かに問いを重ねた。「もし霧島さんが来られたら......お会いになりますか?」弘次は眉間に深い皺を寄せた。「なぜそんなことを聞く?」「彼女が来たときに、私が通すべきかどうかを判断するためです」しばしの沈黙のあと、弘次は低く言った。「......彼女は来ない」「もし来たら?会われますか?」そのとき、外から車のクラクションの音が響いた。弘次の肩がわずかに揺れた。薄い唇が固く結
今の二人の関係は、ただ付き合うか別れるかという単純なものではなかった。その間には、子どもたちと双方の両親複雑に絡み合った現実がある。「どうした?」瑛介の声が、弥生の思考を現実へ引き戻した。顔を上げると、心配そうに彼がこちらを見ていた。「ちゃんと食べた?」実際のところ、弥生はほとんど口にしていなかった。どうにも食欲がわかず、少し食べただけで胸いっぱいになってしまった。「うん、もう十分」そう言って笑みを作るが、瑛介の視線にはまだ不安が残っていた。「もう少しだけ食べてみないか?」彼の気遣いに、弥生はためらいながらも箸を取り、もう二口ほど口に運んだ。「......これでいいわ」それ以上は食べられず、箸を置いた彼女を見て、瑛介もそれ以上勧めることなく箸を下ろした。「今日はどうだ?気分でも悪い?」「そういうわけじゃない。ただ......」弥生は言葉を濁し、彼を見つめたまま黙り込んだ。あの自分だけ見える投稿のことを、話すべきか。結局言葉は喉の奥で止まった。記憶を失っている今の自分には、断片的な情報しか持っていない。話しても、彼から聞く答えをどう受け止めていいのか、分からない。それなら、思い出すまでは何も言わないほうがいい。「......どうした?」沈黙に耐えきれなくなった瑛介が、優しく問いかけた。弥生は一瞬ためらい、やがて小さく息を吐いて言った。「ごめん。今は話したくないの」その正直な言葉に、瑛介は少し驚いたように目を瞬いた。なんでもないとごまかすと思っていたからだ。だが、彼女がそう言うのなら、これ以上追い詰めてはいけない。「......わかった。無理に話さなくていい。でも、もし何か引っかかってるなら、いつでも僕に話してほしい。ひとりで抱え込むのは、良くないから」その穏やかな声に、弥生の肩の力が抜けた。「うん、わかった」彼の理解と尊重が、彼女の胸を少しだけ軽くした。翌朝。一晩経つと、昨日の冠水はすっかり引いていた。雲の隙間から日光が差し込み、街は明るさを取り戻していた。交通も完全に復旧した。午前十時近く、弥生と瑛介はようやく出発の準備を整えた。荷物はすでにトランクに積まれている。昨夜のうちに、弥生ははっきりと伝えていた「今日が
弥生が部屋を出る前、確かに書斎の灯りは消えていた。それなのに今は、やわらかな光がドアの隙間から漏れている。つまり瑛介は、彼女が眠っているあいだにこの部屋を使ったのだ。彼女が問いかけると、瑛介の足が一瞬止まった。「......ああ、少しだけ使った」すでに見つかってしまった以上、否定しても余計に疑われるだけだ。「そう?」その言葉に、弥生は警戒するように目を細めた。「もしかして私が寝てから起きるまでの時間、まるまる使っていたんじゃないの?」図星だった。「まさか仕事してたんじゃないでしょうね?」やがて彼は小さく息を吐き、観念したように言った。「少しはしたけど、本当に座ってパソコン作業をしただけだし、静養といっていいだろう」そう言ってから、少し間を置いて慌てて付け加えた。「別に、大きな動きはしていないよ」弥生は何も言わず、唇をきゅっと結んだ。次の瞬間、彼の前に歩み、いきなり衣の裾をつかんで、ぴらりと持ち上げた。「ちょっと......弥生?」予想外の行動に、瑛介は一瞬固まった。だが、彼女が何をしようとしているのか悟ると、抵抗せずそのまま立ち尽くした。弥生は真剣な表情で彼の腹部を見つめていた。包帯は白く清潔なまま。血の滲みもない。それを確認すると、ようやくほっと息をついた。そんな彼女を見て、瑛介はつい笑い声を漏らした。「そんなに心配してくれてるのか?」しかし、弥生は笑わなかった。むしろ不機嫌そうに彼を睨んだ。「怪我してるのに、たかが数日ぐらい我慢できないの?」瑛介は苦笑して肩をすくめた。「ほんの少しだけだよ。座ってただけだし」「仕事してる時点で、休んでるとは言えないの」「はいはい、わかったよ」反論しても無駄だと悟り、彼はすぐに降参した。「悪かった。もうしない」その素直すぎる謝り方に、弥生も怒りきれず、思わずため息をついた。「いつも謝るのは早いけど、また同じこと繰り返す」瑛介は彼女の腰を抱き寄せて、いたずらっぽく笑った。「今度こそ本当に繰り返さない。約束する」「嘘ばっかり」どうせ次に見つかったら、またごめんで済ませるのだろう。「まぁ、そういうことにして......さ、そろそろご飯にしよう。ルームサービス、もう届いてる頃だ」







